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2023.06.29 / COLUMN
我々が今生きている21世紀は、デジタルトランスフォーメーションの時代とも言えるでしょう。情報化社会の進展、AIやビッグデータの普及、スマートデバイスの爆発的な普及など、デジタル技術は我々の生活を劇的に変化させ、新たな可能性を生み出しています。そして、その最前線に立とうとしているのが新興国、インドです。
インドは、その巨大な人口と急速な経済成長、そして若い世代を中心としたテクノロジーへの敏感さを背景に、デジタルトランスフォーメーションを急ピッチで進めています。インターネットの普及、電子商取引の拡大、さらにはスマートフォンを利用したフィンテックサービスの普及など、インドのデジタル化は驚くべき速さで進行しています。
しかし、このデジタルトランスフォーメーションが、インドにどのような影響を与えているのでしょうか。インド政府は、どのようにしてこの大きな変革を推進しているのでしょうか。また、その過程でどのような課題に直面し、それにどのように対応しているのでしょうか。
本稿では、これらの問いに対する答えを探りながら、インドのデジタルトランスフォーメーションの全貌を描いていきます。その背景から現状、そして将来に向けた展望まで、インドのデジタルトランスフォーメーションについて深く掘り下げていきましょう。
インドのデジタルトランスフォーメーションは、その規模と速度から見ても、世界が注目するべき現象となっています。約14億人の人口を抱え、そのうちの約半数がインターネットを利用し、2023年3月末時点で人口の約93%がインド版マイナンバー「アーダール(Aadhaar)」をすでに持っている現状は、デジタルトランスフォーメーションの進行を如実に示しています。インドは、これらの数字を背景に、行政、教育、そして電子政府への道を確固たるものにしています。
インド大手財閥リライアンス・インダストリーによる「JIO」の通信産業への参入により2016年以降インターネットの普及が急速に進み、中国メーカーを中心としたスマートフォンの低価格化により、多くの国民がインターネットにアクセスできるようになりました。そのような市場環境の中で、インド政府はデジタルトランスフォーメーションを国家戦略の一部と位置づけ、その推進に力を注いできました。インド版マイナンバーと言われる「アーダール(Aadhaar)」やインド独自の統合決済インターフェース「UPI(Unified Payments Interface)」に代表されるデジタル公共財「インディア・スタック」を国のデジタルインフラとしてオープンソース化し、現在はさらに医療関係者が相互利用可能なデジタル・ヘルスケア基盤「ヘルス・スタック」の取り組みや、インド独自の電子商取引オープンネットワーク「ONCD(Open Network for Digital Commerce)」の取り組みを強力に進めています。
その背後には、いくつかの重要な背景が存在します。
まず一つ目は、経済成長による中産階級の増大です。インドの中産階級は、新たな消費者市場を形成し、他国のスピードを上まる勢いでデジタルサービスに対する需要を急速に高めています。
二つ目は、若い世代のテクノロジーへの敏感さと探求心です。彼らは新しいテクノロジーをすぐに取り入れ、社会全体へ広める役割を果たしてると考えられます。
そして、三つ目は、国民の受容力の高さです。多様な地域・人種を抱えるインドをひとつの国としてまとめることは簡単ではないことは容易に想像がつきますが、逆に、多様な言語・宗教・価値観・文化が混在しており、かつ、インフラや法規制において不備・不足の多い社会で育ったインド人にとって、未完成なものや異質なものや変化を受け入れる受容力は非常に高いと感じます。
このような背景が土台となって、14億人もの人口を抱えるインド政府自らが主導をして、さまざまな施策を打ち出し、それを実現していくことを可能にしているのです。
このデジタルトランスフォーメーションは、その国全体の未来を大きく左右します。新たなデジタル化の波が押し寄せる中で、インドは自国の潜在能力を最大限に引き出し、さらに、世界に対しても新たな価値を提供する機会を得ています。事実、統合決済インターフェースUPIは隣国のネパールやブータンでの導入が進んでおり、また、シンガポールやタイも関心を示している状況。また、2023年5月にはデジタル担当大臣・河野太郎氏がインドのUPIへの参加を真剣に検討している旨の発言があり、インドのデジタルインフラが世界に対しても価値提供ができる可能性を示唆しました。
しかし、その一方で、デジタルトランスフォーメーションは大きな課題も抱えています。それは技術的な問題だけでなく、教育や行政の現場での受け入れや適応、そして社会全体の文化や価値観の変化という、人間的な側面も含みます。多種多様な地域・人材を抱えるインドが、これらの課題をいかに克服していくのか、インドのデジタルトランスフォーメーションのプロセスそれ自体が大きな注目点であると同時に、他の新興国や先進国におけるデジタルトランスフォーメーションの参考ともなり得ます。そして、それはデジタルトランスフォーメーションが社会全体に与える影響と可能性について、新たな理解をもたらすのではないでしょうか。
デジタル化は、現代社会におけるインフラの一部とも言える存在です。それは情報のアクセス性を向上させ、社会全体の生産性を高める力を持っています。しかし、それはまた、公共サービスの効率化と透明性の向上という重要な役割も果たしています。そしてインドにおいて、これらの効果は特に顕著です。2014年から推進されてきたインドの政策「デジタル・インディア」には以下3つの重点領域と9つの柱が示されています。
【3つの重点領域】
① 公共サービスとしての全市民に対するデジタル・インフラ構築(身分証明、移動電話、銀行口座、安心安全なサイバー空間)
② 電子行政サービスのオンデマンド化(オンライン及びモバイルのプラットフォームにリアルタイムで提供、電子金融サービス・キャッシュレス化)
③ デジタル化による市民のエンパワーメント化(デジタル・リテラシーの向上、全文書・証明のクラウド化)。
【9つの柱】
① ブロードバンド整備
② ユニバーサル・アクセスに向けたモバイル・コネクティビティ
③ 公衆インターネット・アクセス拠点の整備
④ 電子政府
⑤ サービスの電子的提供
⑥ オープン・データ・プラットフォーム及び政府のソーシャルメディア活用
⑦ 国内での電子機器製造
⑧ ICT関連産業の雇用創出
⑨ 全大学におけるWi-Fi構築
インドにおけるデジタル化の重要性は、まず、情報アクセスの格差の解消に見られます。インドは地域間、都市と農村部の間に大きな情報アクセス格差が存在していますが、第2章で述べたとおり、インターネットの普及とスマートフォンの低価格化により、これらの格差を大きく縮小しています。情報の民主化が進み、その結果として生活の質の向上や新たなビジネスチャンスの創出が期待されています。
さらに、デジタル化は公共サービスの効率化と透明性の向上に大いに貢献しています。行政手続きのオンライン化により、それまで時間とコストがかかっていた手続きが簡素化され、公民の利便性が大幅に向上しています。また、データの一元管理と公開により、行政の透明性も向上。これにより、公共サービスへの信頼性が高まっています。これらの取り組みを支える背後には、政府の強い推進力が存在します。インド政府は、デジタル化が国家の競争力を高め、社会全体の生活の質を向上させると認識しており、その実現に向けた具体的な施策を積極的に進めているのです。
しかし、このような取り組みは容易なものではありません。具体的な政策や取り組みにはどのようなものがあるのでしょうか。また、それらがどのようにインド国内サービスのデジタル化に影響を与えているのでしょうか。次章では、これらの問いに深く踏み込みます。
デジタル化がサービスに与える影響は深く広範であり、その一端を具体的な例を通じて理解することは重要です。そして、これらの具体的な例は、デジタル化が国民の生活にどのようなポジティブな変化をもたらしているかを示しています。
まず、行政サービスのデジタル化による影響を見てみましょう。インド政府が推進する「デジタル・インディア」プログラムの一環として、多くの公共サービスがオンライン化されました。上述のとおりインド版マイナンバー「アーダール(Aadhaar)」と統合決済インターフェース「UPI」の浸透により、市民は身分証明書の申請や電気代の支払、税金の納付、行政に対する問い合わせなどオンライン化されつつあり、オンライン化による透明性の向上は、腐敗の抑制にも繋がっています。また、コロナ禍のワクチン接種については政府が主導したコロナポータルサイトCo-WINにおいて、Aadhaarを持つ約13億人の国民全員がオンラインで個人認証することによりワクチン接種予約や履歴管理、ワクチン接種証明書の発行などを一元管理できる仕組みをスピーディに立ち上げました。これらの活動により、公共サービスへの信頼が向上し、行政機能の効率化に大きく貢献をしています。
また、民間サービスのデジタル化においても多くのスタートアップがAadhaarやUPIなどのデジタル公共財を組み込んだサービスを展開しています。例えば、デリバリーや遠隔医療、派遣サービス、オンライン教育、決済、融資、保険、試算管理などの広範囲なフィンテック領域でまで、日々の生活を支えるアプリやウェブサービスが数多く誕生し、日々成長を続けています(詳しくはこちらのスタートアップ紹介記事をご覧ください)。例えば、民間サービスを利用した際の決済については、公共インフラであるUPIが利用可能であるためとても便利です。また、個人間の送金でさえも相手の(UPI IDに紐づいた)携帯番号さえわかれば、相手の銀行口座情報がわからなくてもGoogle PayやPaytmなどのプラットフォームを通じて相手の口座にその場で送金できてしまいます。実際、インドで飲み会にいった際の割り勘は、UPIを通じてその場で送金するのが当たり前になりつつあります。電子マネーを送るのではなく、電話番号だけで自分の銀行口座から相手の口座に送金できてしまうのです。
一方、教育のデジタル化もまた、国民の生活に大きな変化をもたらしています。全大学のWi-Fi整備はその最たる例で、これにより学生はキャンパス内どこでもインターネットに接続でき、自由な学びが可能となりました。これにより、これまで自身ではインターネットにアクセスできていなかった学生が、手の届かなかった海外の研究論文や専門知識へのアクセスも容易になり、教育の質が大きく向上しています。また、コロナ禍以降、オンライン学習サービスを提供するエドテック領域のスタートアップも事業を大きく拡大しています。
しかし、このようなデジタル化の進展は、必ずしも容易なものではありません。Wi-Fiの整備だけでなく、教育者や学生がデジタル化に適応するためのサポートや、セキュリティの確保など、解決すべき課題はまだまだ多く存在します。次の章では、デジタル化にともなう現状の課題と挑戦について詳しく見ていきましょう。
デジタルトランスフォーメーションの進行に伴い、インドはいくつもの課題に直面しています。予算の確保、デジタルリテラシーの向上、個人情報やセキュリティの保護といった課題がここには含まれます。しかし、この進行を止めるべきものではなく、これらの困難を克服するための戦略が重要なカギとなります。
予算の確保については、パブリック-プライベートパートナーシップ(PPP)が一つの解決策となるかもしれません。これにより、政府だけでなく、民間の投資や資源も活用し、新たなデジタルインフラの設置と保守・運用を可能にします。また、国際的な投資や援助も重要な役割を果たします。このようにして、財政的な負担を分散させ、デジタル化の推進を続けることができるでしょう。一方で、官民連携の拡大そのものにも課題は多く、海外投資家からの資金調達をより促進するための透明性の高い税制度や紛争解決メカニズム、価格重視の(過度に低価格な)入札基準の見直し、また、金融機関の不良債権処理なども重要となります。
デジタルリテラシーの向上については、教育現場におけるデジタルスキルの教育が重要となります。教員の研修はもちろん、学生自身に対するデジタルリテラシーの教育も不可欠です。インド政府は、2020年のコロナ禍に国家教育政策2020(National Education Policy 2020)を発表し、基礎教育の拡充やデジタルリテラシーの向上等を目的とした教育政策を導入しています。
また、デジタルセキュリティは、個人情報の保護や知的財産権の保全を確保するために不可欠です。ここでは、セキュリティシステムの強化だけでなく、利用者のセキュリティ意識を向上させるための教育が重要となります。インド政府は、これまで「2000年情報技術法( the Information Technology Act, 2000 )」を施行・運用をしてきましたが、昨年「2022年個人情報保護法案(The Personal Data Protection Bill, 2022)」を発表し、デジタル化にともなう情報の取り扱いにかかる法整備の強化に取り組んでいます。
これらの戦略により、デジタルトランスフォーメーションの道のりは決して平坦なものではないかもしれませんが、それは確固たる前進を続けています。そして、これらの取り組みは、デジタルインドの未来の可能性をさらに広げています。
本稿を通じて、インドにおけるデジタルトランスフォーメーションの進行とその影響について考察してきました。この進行は、デジタルインフラ、サービス、教育の分野において特に重要な変革をもたらしています。インドのデジタルトランスフォーメーションは、まだまだ進行中のプロセスです。それは社会全体を変え、その変革の影響はインド国内にとどまらず、世界に対して影響を与えようとしています。そして、このプロセスを理解することは、インドの未来を予測し、また、他の新興国や先進国におけるデジタルトランスフォーメーションの参考にするためにも重要となると考えています。本稿が、インドにおけるデジタルトランスフォーメーションの理解を深め、その進展と重要性を再確認する一助となれば幸いです。